ひがし100
町名由来

東区の町名由来(抄)

 出典:東生涯学習センター発行「ときめきの風は東から」
 東生涯学習センターには約30号あるバックナンバーが閲覧できるように配架してあります。

 

1 出来町(できまち)
  
〜新出来町は古出来町より古かった?〜

  神坂次郎『 元禄 ( げんろく ) ( たたみ ) 奉行 ( ぶぎょう ) の日記―尾張藩士の見た浮世』(中公新書)の中に、貞享4年1687)に名古屋城下で「出来町の坪井庄八乱心。女房と村田角兵衛を切り殺す」と記されている。

ところで出来町ができたのは、1667〜1673年の間といわれている。その後、今の新出来あたりに武家屋敷や町屋ができ、すぐ東に出来町があったので新出来町と呼んだ。(1702)。

その後、出来町は古出来町と呼ばれるようになり、出来町の名前は消えてしまった。新しく出来町が復活したのは、1979年に住居表示の変更によってである。そのときは三丁目のみであったが、1981年に一・二丁目が成立して現在の出来町が出来た。出来町には長い長い過去があるが、われわれが今住んでいる出来町には20年ほどの短い歴史しかない。
                                

 

 2車道(くるまみち)
  
〜どんな車が通っていたのだろうか?〜
 

「シャドウヒガシマチ(車道東町)ですか、珍しい地名ですね」と尋ねられた。以前、県外で電報を依頼した時の話です。地元で呼び慣れた地名も所が変われば奇異なこともある。

 「車道」は、現在の東海高校の正門あたりから広小路筋までの南北の筋である。延宝年間(1673−1680)、二代尾張藩主・徳川光友が 御下屋敷 ( おしたやしき ) を造営するため、東山辺りから石材を車で引いた道筋だからという説、建中寺での葬儀の際、供養の品物を裏門から車で運び通ったという説などがある。

 建中寺の門前町、筒井町と共に栄えた街であるが、近年、再開発が進み戦前からなじみの老舗も相次いで消えつつあり、郷愁を感じる。せめて、6月に引き回される山車(だし)の姿に往時を偲びたい。